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tome365

Author:tome365
高倉勝子美術館「桜小路」
Katsuko Takakura Art Museum
登米市登米町出身
日本画家 

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髙倉勝子ふるさと展にちなんで - 義経ゆかりの地を訪ねて-①
冬企画
髙倉勝子美術館特別企画展「ふるさと」を開催中です。 

連日、皆さまにご好評頂いております。

当館では、先日からスタッフブログや随想録をご紹介しておりましたが、
今回、勝子作品に合わせAW氏のコーナーを設けました。

古里に想いを馳せ、日本画家 髙倉勝子が何を語らんとしていたか。
AW氏は、資料を基に自ら地に赴き歴史を辿りました。
シリーズ5より、順にご紹介いたします。
その1
髙倉勝子先生の作品に、当地方の歴史・自然をテーマにした作品が多くあります。

 前九年・後三年の役を描いた「弓削の泉=源泉の歴史」、大和朝廷に対する
蝦夷(エミシ)の抵抗と保呂羽という地の起こりを描いた「保呂羽舘に想う」等。

ふるさとの自然をこよなく愛した作品「四季折折に彩を変えながら、
ふる里の山河は、移り変わって流れて行く・・・・・と附記されている
ふる里の山河に想う・源流(こころの四季)・悠―森の伝説・成沢上流・」等々。

また、平成10年の作品に「森の詩」という作品があります。
この作品に先生は次のようなコメントを載せています。
「北上川沿岸の山々には悲しい伝説がいっぱいある。
義経が兄頼朝に追われて平泉に行く途中の物語は、義経贔屓の北国の人々が
事実以上に脚色してその哀れさに同情した所為かも知れない。
木の根のホコラや道端の石仏群にも哀愁を語りかけながら、
時はどんどん流れて行く。」と記しています。
  
この様に、地域の自然や歴史を描いた作品は枚挙に遑はありませんが、
特に「北上山系」には先生の想いが凝縮されている作品ではないでしょうか。
その中に、先生の生家の近くの弁慶山が描かれており、
義経主従の所縁の地と言われています。
  
そこで今回は、当地域に語り継がれている
義経公のゆかりの地を訪ねてみたいと思います。
また、登米市の隣、南三陸町の元宮城県議会議員で
後藤三郎氏の著作「創作 金売吉次」に登米地方での
源義経公の活躍の様子がえがかれているので、
それも参考にさせて頂きながら記していきたいとおもいます。
  
源義経公はご存じのように、幼少時は平家の囚われの身で鞍馬山で過ごし、
16歳のとき、平家打倒を誓い奥州平泉藤原秀衡公を頼って東下りし
6年間武人として成長し、兄頼朝が平家打倒の兵を挙げると直ちに馳せ参じ、
屋島や壇ノ浦などの戦いで勝利し、最大の功労者となりましたが、
兄との確執から追討される身となり再び平泉に落ち延びてきました。
しかし、奥州平定という強硬な頼朝の脅威に耐えかねた泰衡に攻められ、
平泉衣川にて主従共々非業の最期を遂げたとたといわれていますが・・・・・・・・・・・・・。

 しかし、しかし、英雄不滅説、判官贔屓 ・・・・・・ 
義経公は悲劇の英雄として多くの伝説が残っています。
衣川の館で自害しないで北海道に逃れたという「北海道逃亡説」や、
更には大陸に渡り「ジンギス・カン」となって  世界最大の帝国を築いたという。
   
ジンギス・カンを漢字では「成吉思汗」と書きます。
これを日本語読み(?)にすると「吉成りて水干を思う(よしなりてすいかんをおもう)」と読めるそうです。
義経公が兄頼朝に追われ、東下りの時、愛妾の静御前と吉野山で別離の際
「自分はこれからの地で名を挙げ功を為す。それまで息災でいるように。必ず呼び戻すから」と約束した。
大陸で一大帝国帝国を築き挙げた義経公は吉野山で約束したことを
「成吉思汗」という名に託したと言われています。
  
それでは、前置きが長くなってしまいましたが、悲劇の英雄「義経公」の当地での足跡を辿ってみましょう。
                                                       つづく

※企画展では、撮影した写真と共にご覧いただけます。
次回、その2 お楽しみに(^^)♪                  


新着情報 | 16:06:56 | トラックバック(0) | コメント(0)
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